日野愛子の、日本に氣づけるブログSAKIWAHI

名前のことだまを入り口に、和ごころに気づけるブログです。

プロフィール

日野  愛子

Author:日野 愛子
日本人がもう一度、日本人になろう。

皇紀2671年3月11日、
再び、ほんとうの幸せに戻るための、
大きく舵を切れた転換点にするために。

いつもほんとうのことを知ろうとすること、
いつも自分の中の愛に聞いて、
一歩を選べるように。

知ることへの道は、愛のはじまり。

名前のことだまを入り口に、
素敵な日本に氣づけるブログです。

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2013.12.14

粋の妙

元禄15年の今夜は、
今も日本人が胸を熱くする、あの出来事が起こった日…


元禄14年3月に、
江戸城松之廊下で播磨赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が、
幕府の礼式を司る高家筆頭の吉良上野介義央に小刀で切りかかるという事件が起きました。

喧嘩両成敗という考え方の当時にありながら、
浅野には即日切腹、領地没収という厳しい処置がとられたのに対し、
吉良にはお咎めがなかったことに、端を発した事件。

『赤穂浪士の討ち入り』

綿密に計画を練りに練って、翌年12月14日寅の上刻(15日午前3時頃)、
大石内蔵助の率いる47人が、本所の堀部安兵衛宅に集まり、そこから吉良邸へ討ち入りました。

わずか2時間の戦いの末、
赤穂浪士たちは、死者を出さずに吉良の首を取りました。


この事件は、

・浅野内匠頭長矩が、吉良上野介に刃傷に及ぶまでのいきさつ

・赤穂浪士の綿密な計画や、討ち入り当日までの47人それぞれのドラマ

・討ち入り当日とその後について


と、各々の場面が、不思議なほどに非常に細かく描写されている作品が数多あります。


今も尚、新たな作品が生まれ続けていますが、

はじめて舞台として取り上げられたのは、なんと、
討ち入り後間もない、
翌元禄16年の正月だったというのです。

江戸山村座で演じられた『傾城阿佐間曽我』(けいせいあさまそが)
曾我兄弟の仇討ちという建前ではありましたが、
まさしく赤穂浪士の討ち入りを表現していました。

江戸幕府から、
同時代に起こった武家社会の事件を、文芸や戯曲で取り上げることは禁じられていたため、

別の時代や他の歴史上の人物に変えて演じていたのです。


江戸時代の人たちは、本当に、
工夫を凝らして自ら愉しみ、信念を残すということをやっておられたのだなぁと思います。


以来、浄瑠璃や歌舞伎、講談や浪曲、
舞台、映画、ドラマ、様々に形を変え、
今にもずっと受け継がれています。


当時、江戸の世で、
この事件がこれほど話題になった理由のひとつは、

民衆は皆ひそかに、赤穂浪士の味方であったから、と云われています。


吉良邸の広さは大変なもので、薄暗がりの中、
わずか2時間で吉良の首を討ち取ったのには、
近所の人たちをはじめ、大方の人間が赤穂浪士たちに味方をしていたこともある、
という説もあります。


また、もうひとつの理由には、
江戸時代というのは、
ひとつの事件がこれほどまでに大きく取り上げられるほどに、

「平和だった」こともあるでしょう。



それにしても、です。

【47】というこの数、なんだかとても、不思議に感じます。



この思いを、いかにしてか残さんと、意図があったのか無かったのか…



今の日本の国は、47都道府県から成っていますね。


四十七士の装束に、それぞれ、
いろは仮名を一文字ずつ書いた浮世絵も存在します。


いろは歌、「いろはにほへと」「ちりぬるをわか」・・・

いちばん下の文字を順に読むと、
「とかなくてしす」・・・「咎(とが)無くて死す」・・・




日本人は、粋ですね。

粋の妙が、日本人を日本人たらしめている。



今日も、
ことだまの幸わふ国に
生かしていただき、
ありがとうございます。 愛子
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