日野愛子の、日本に氣づけるブログSAKIWAHI

名前のことだまを入り口に、和ごころに気づけるブログです。

プロフィール

日野  愛子

Author:日野 愛子
日本人がもう一度、日本人になろう。

皇紀2671年3月11日、
再び、ほんとうの幸せに戻るための、
大きく舵を切れた転換点にするために。

いつもほんとうのことを知ろうとすること、
いつも自分の中の愛に聞いて、
一歩を選べるように。

知ることへの道は、愛のはじまり。

名前のことだまを入り口に、
素敵な日本に氣づけるブログです。

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昭和天皇が終戦時、
マッカーサー総帥に対し、

自分の命はどうなってもよいから、どうか国民が飢えぬよう、
米国の支援をお願いしたいと深々と頭をお下げになり、

マッカーサー総帥はそのお人柄に驚き、

日本国民の結集力、強さは、この象徴である人物を掲げた国であるからだったのかと、
痛く感心なされた。


このお話は、近年若い方も少し知るところとなったと思います。

私も初めてこのお話を知ったとき、
何とも言えぬ日本人としての感激を憶えました。


しかし陛下にとっては、その御言葉は、
何の特別なこともない、あたりまえの御言葉であったのかもしれません。


終戦前にも、陛下は苦渋の選択を下しておられました。

御前会議。

終戦を決めることとなった8月9日の御前会議では、
総理大臣司会のもと、外務大臣、各軍最高責任者らが意見を述べ、

外務大臣以外は、

一億総玉砕となろうとも、戦い抜くことが日本の名誉だという意見で一致します。

そこで総理大臣は、陛下にご意見を求めたのです。

ご意見を求めてはいけない御方に。


陛下は、こう話されました。


「太平洋戦争が始まってから、陸海軍のしてきたことをみると、予定と結果が、大変違う場合が多い。
大臣や総長は、本土決戦の自信があるようなことを、先程も述べたが、
しかし侍従武官の視察報告によると、兵士には銃剣さえも、ゆき渡ってはいないということである。

このような状態で、本土決戦に突入したらどうなるか、非常に心配である。

あるいは日本民族は、皆死んでしまわなければ、ならなくなるのでは、なかろうかと思う。

そうなったら、
どうしてこの日本を子孫に伝えることができるであろうか。

自分の任務は、
祖先から受け継いだこの日本を、子孫に伝えることである。

今日となっては、
一人でも多くの日本人に生き残ってもらって、
その人たちが将来再び立ち上がってもらうほかに、この日本を子孫に伝える方法はないと思う。

このまま戦を続けることは、
世界人類にとっても不幸なことである。

自分は、明治天皇の三国干渉のときのお心もちをも考えて、
自分のことはどうなってもかまわない。

堪え難いこと、忍びがたいことであるが、
かように考えて、この戦争をやめる決心をした次第である…」


日本国民と、さらに世界人類のために、自分のことはどうなっても構わないという、
陛下の広大無辺なる御仁慈に、ただただ皆ひれ伏したといいます。


陛下は更に、

国民がよく今日まで戦ったこと、

軍人の忠勇であったこと、戦死者戦傷者に対するお心もち、遣族のこと、
外国に居住する日本人、すなわち今日の引揚者に対し、
戦災にあった人に対して、御仁慈の御言葉を述べられました。


陛下のお言葉が終わると、
総理は立って陛下に入御を奏請し、

陛下はお足どりも重く、室をお出になられた。


午後11時より始まった御前会議、
この時既に、午前2時になっていました。


どのような時にも立憲君主制を貫き、
政治に御意見されることのなかった昭和天皇、
間違いを犯したと、後にこの時のことを語っておられるそうです。


しかしこの御言葉が無かったならば、
いま、恐らく私はここに存在していないでしょう。

あなたも、あなたのご家族も、国民すべて、
あの時で、何もかも終わり果てていたのかもしれないのです。



戦中戦後の、昭和天皇のお暮らしぶりをご存知でしょうか。


戦前昭和天皇は、
明治時代に落成した明治宮殿に住まわれていました。

昭和18年、
大型の爆弾に耐えうるようにと、防空施設・御文庫が造られました。

昭和天皇は午前中は表御座所で政務をされ、
午後はこの御文庫でお過ごしになりました。

御文庫の広さは1,320㎡。
地下1階と地下2階があり、両陛下の居住スペースのほか、
侍従たちの部屋や映写室、ピアノ、ビリヤードなどがあったそうです。

1トン爆弾に耐えうるよう、屋根の厚さ3m。
コンクリート層、砂層、コンクリート層の3層構造をしていました。


やがて戦局が悪化するにつれ、
御文庫でさえ危ないということになり、
御文庫のそばに新たな防空壕を造られました。

御文庫附属室です。

附属室は地下10mのところにあり、広さは330㎡。
会議室が2つと控室、機械室があって、それぞれ1mもの幅の鉄筋コンクリートの壁で仕切られていました。

御文庫附属室は50トン爆弾に耐える能力を持ち、
御文庫も6トン爆弾に耐えられるよう補強されました。


昭和20年5月、
米軍機B-29が、実に250機来襲し、焼夷弾を投下。

東京では16万戸が全焼し、皇居も大きな被害を受けます。


大小27棟もの明治宮殿も、全焼。


その知らせを聞いた陛下は、

「そうか、焼けたか。これでやっとみんなと同じになった」とつぶやいたと云われています。


翌日、その焼け跡を昭和天皇がご覧になります。
同行した警衛局長は焼失を詫びますが、

陛下は、
「戦争のためだからやむを得ない、それよりも多数の犠牲者を出し、気の毒だった。残念だったなぁ」とおっしゃったそうです。


以降、やむを得ず宮内省第2期庁舎を仮宮殿とし、
政務はそちらで、居住は御文庫という状況になりました。


広島、長崎に原爆が投下されると、
いよいよ皇居にも原爆投下されるのではという憶測も流れ、
両陛下は地下の御文庫附属室へ避難されます。


先にご紹介した、
8月9日と14日に御前会議が開かれたのもこの場所です。


そして、終戦。


東京は一面の焼け野原でした。

両陛下も御文庫での生活が続いていました。


しかし、この御文庫、
天井に詰めた砂は、建設当時雪が積もっていた砂をそのまま詰めてしまっていて、
溶けた水が、何年も経ってからコンクリートから浸み出し、ぽたぽたと落ちてくるのでした。


同じく御文庫附属室は地下深くにあったため、
そこから伝ってくる湿気も酷いものだったといいます。

スーツを吊るしておくと、一両日のうちに完全に湿ってしまったのだとか。


こんな場所に陛下を住まわせてはおけない、と侍従は御所の新造を提言しますが、

陛下は「世の中には住む家の無い人もあるのに、私にはこれだけのものがあるのだから」とあっさり却下。

せめて修理をと、調査すると天井裏からドラム缶2本半もの水が出てきたのだとか。

再三にわたり陛下に新造を奏上するも、陛下はこれに応じませんでした。


そして日本は、
戦後の混乱期を乗り越え、高度経済成長期を迎えます。


昭和34年、皇太子殿下御成婚で、
世間はミッチー・ブームに沸きますが、

その時もなお、
まだ両陛下は御文庫にお住まいになっておられました。


それからさらに2年、
終戦から、実に丸16年が経過して、

ようやく新たに建てられた吹上御所にお移りになったのです。


吹上御所は延べ1,504㎡。
鉄筋コンクリート2階建ての洋風建築。

「こんないい家に住めるようになったのもみんな国民のおかげだ」と、
この年還暦を迎えた陛下はおっしゃったのだそうです……





このような事実を、
私たち日本国民は、どれほど胸に刻むことが出来ているでしょうか。


神の国日本、という言葉…


私たちは、名実ともに、ずっと護られてきました。


私たちは、志高く、

身近な方々のために、地域のために、日本のために、世界のために、
あらゆる場面で、誇りの持てる選択をしたいと思います。

戦争においては、
私たち日本人こそが、その抑止力となるべき存在です。


大切な、日本人として生まれたことのお役目を、
思い出しましょう。



今日も、
ことだまの幸わふ国に
生かしていただき、
ありがとうございます。 愛子


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