日野愛子の、日本に氣づけるブログSAKIWAHI

名前のことだまを入り口に、和ごころに気づけるブログです。

プロフィール

日野  愛子

Author:日野 愛子
日本人がもう一度、日本人になろう。

皇紀2671年3月11日、
再び、ほんとうの幸せに戻るための、
大きく舵を切れた転換点にするために。

いつもほんとうのことを知ろうとすること、
いつも自分の中の愛に聞いて、
一歩を選べるように。

知ることへの道は、愛のはじまり。

名前のことだまを入り口に、
素敵な日本に氣づけるブログです。

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冬の名残が消え、各地で桜の花が咲き誇り、はらはらと散ってゆき、
4月ももう、半分が過ぎ去ろうとしています。


季節の移り変わってゆく時期というのは、
自然のリズムも変化すると同時に、
人の身体も心も、緩やかに変化の準備を始めるものですね。


花粉症の方の症状はいま、どのような状況ですか?

私はおかげさまでほとんど症状がなく、もう夏に向かっていく心の準備が始まっています。


ちなみに花粉症は、花粉が原因ではありません。


身体にとって有害なものに対する対処は出来ないのに、
あまり有害ではない花粉に対して過敏に反応してしまうという状態。


花粉は昔から存在しています。


問題なのは、花粉ではなく、添加物だらけになって麻痺してしまった、
あなたの身体のほう。

なのです。



あなたが問題だと思っているものが問題ではなく、
あなたが問題ないと思っているものが問題である。

そんなことも、あるかもしれませんね。



明日のお休みには、
ふたりのお友達と会って、ゆっくりご飯をいただくことができます。

人に会い、素直に率直に対話できるということは、それだけでもじゅうぶんに幸せなのですが、
「一緒に食事をする」ということは、更に、

もっともっと、互いの仲を近づけてくれる、ありがたいこと。



「同じ釜の飯を食う」という言葉があり、
主にそれは、生活を共にしてきた同志のことを指す場合が多いですが、

そのことを、
「同じ釜の飯を食ってきたんだから、絆の強い同志である」という意味に受け取るように、

ただ会話をするよりも、
一緒に食事をするということは、もっともっと、互いが打ち解け合える、大切な要素です。


不可抗力以外では、食事は、好きでない人とはしませんから。

元をたどれば、食事は、家族で行ってきたもの。身内、仲間で行ってきたもの。


「一緒にご飯を食べよう」は、「あなたと仲良くなりたいな」ということですね。




「ご飯食べようよ」

そう言い合える人が居る人は、それだけで、とっても、幸せです。


今日も、
ことだまの幸わふ国に
生かしていただき、
ありがとうございます。 愛子


概念とは、本当に面白いものですね。



先日、久しぶりに再会した友人と、食事しながらあれこれと、
色々な話をしていた時のこと。


非常に集中して、優しい表情で、
私の話に耳を傾けてくれるので、

私も彼の目をずっと見ながら、他に目をやることなく、
一生懸命に話していました。


ちょっと熱くなりすぎたかな。
食べるものも食べさせないで、話し続けてしまった。

「どうぞ、食べてくださいね」

そう言うつもりで、
テーブルの上に目をやったところ…


無いんです。


先ほど運ばれてきたはずの料理が、無い。


「えっ?!……ここにあったお料理は?!」

「食べましたよ。」

「えっ?!……うそ……」


私は、一切のよそ見もせず、ずっと彼の顔を見たまま、
集中して話し続けていました。

ずっと見ていたのに、
彼の口が動いて、食べ物が運ばれているところなど、全く見ていません。


「えっ?!だって…私、ずっと見てたのに…」



自分で自分に起こった現象を、信じることが出来ないくらい、驚きました。

だって。

目を逸らさずずっと見ていて、確かに彼も、動かずずっとこちらを見ていたのに、

その間に、彼はおむすびをひとつ、完食していたのです。



次の瞬間、言いました。

「これって……私の集中力、すごいですよね?!」っと。


(笑)



それだけ、話に集中していて、
かつ、
彼の鼻から下は一切見ず、目だけを見て、ずっと話していたんだと。

かなり驚きましたが、同時に、嬉しくなりました。


私にも、相当集中力がついてきたのかも…と。



元々私は、どちらかといえば注意力散漫なほうです。

何かしていても、何かに気を取られ、
あれをやっていたかと思えば、これもやっている。


お風呂に入っていても、
考え事をしているせいで、

最後に電気を消すのを忘れたり、換気扇をつけるのを忘れたり、
そんなことは日常茶飯事で。


母親からいつも、
「あなたは本当に注意力散漫ね。」と注意されていました。

自分でも、そうだなぁ~と思っていました。


ところが、私、かなり最近、集中力がついてきたのかもしれない!
と思い、嬉しくなったのです。



けれど、その夜帰って、もう少し考えていると、更に氣づいたんです。


あ。

注意力散漫なのではない。
ひとつのことに、集中していただけだ。



そうなんです。



私は私のことを、ずっとずっと、

注意力散漫な人間だと思ってきたのですが、

その同じ現象は、捉える角度を変えると、実は、

非常に集中力がある、ということだったのです。



彼の食べるおむすびが見えなかったのは、集中力があったから。

そして、

彼を見て話す、という事柄以外に対する私の態度といえば、単なる注意力散漫。



概念というのは、面白い。

本当は、どこに焦点を当てるかによって、真逆のことになる物なのに、
思い込みによって、

こちらに違いない、と、自分の世界の中では、捉えている。



ひょっとすると私たちは、
とんでもなく、

思い込みの中に生きているのかもしれません。




お花見のできる時期もあっという間に過ぎ去ってしまいましたね。

今夜は東京から大切なお客様方が来られていたので、
美味しいお料理にておもてなしさせていただきました。


桜は無いけれど、お花見をした気分です。





今日も、
ことだまの幸わふ国に
生かしていただき、
ありがとうございます。 愛子












2014.04.05

以心伝心?

「ありがとう」「ごめんなさい」
言われて嫌な気がする人はいないのだから、いつでもきちんと言いましょう。


この教えに、異論は全くないのですが、

家庭環境の影響なのか、思いをストレートに口にするのが、私はとても苦手です。

私の家では、両親も、私も、
とても仲が良く、しっかりとした信頼関係が築けていると思っていますが、

潤滑油となるような言葉かけが、ほとんどありません。


何かをしてあげるときも、してもらうときも、互いに黙ってやっていて、
感謝する気持ちを持っているであろうことも、
互いに疑う余地がありません。

「ひとこと」が無いことにより、怒る人もいません。

人様に自慢できた環境ではありませんが、
ひそかに、

昔の日本人の家族関係に近いような氣がして、まんざら嫌いでないのです。


誰も、何も、言わなくても、言われなくても、

いつも家族は、家族のことを、とても大切にしているし、
家族のためにやれることは黙ってやっている。


「ありがとう」の口は重いけれど、
言わない分、放出しない分、

ずっとずっと、心の中に溜まっていて、いつも溢れるほどにそこにあり、滲んでいる。



夫婦間でも、

相手がいま、手に持った荷物が邪魔になっているな、と感じたら、
「持ちましょうか?」などと言わないで、言っている間に黙って荷物を取る。


相手が少し、寒そうな素振りをしたら、
「大丈夫?」などと言わないで、言っている間に黙って羽織を持ってくる。


相手も特に、変わった風もなく、黙ってそれを受け入れるけれど、
ひそかに、

通じ合えていることを喜び、また、

自分も必ず、相手の役に立とうと、心に決めている。

そんな、感じ。


どちらかといえば、小さな頃から、今でも、
そんな環境にいるので、

案外私は、言葉かけが、上手でなかったりします。


以心伝心は信じないほうがいい、
と、
最近云われているのを耳にしますが、

私はちょっと、そう言ってしまうのは寂しくて。


相手を良く思っていることほど、言わないでいて、
自分の中で、微笑んで終わっていることが多いんです。

それではなかなか、通じないのかもしれないけれど、
態度で、示そうかな、なんて、思ってしまうのです。


だけれど、「ありがとう」や「ごめんね」の言葉を、

なれ合いにならず長年連れ添ってもいつも互いに掛け合っているご夫婦や親子関係を見ると、

素晴らしいなぁ~と、本当に、心から感心します。



少なからず、昔の日本人には、
私の家庭のような要素は、あったのではないかと思います。

今ではほとんど遣われなくなった「洒落言葉」も、
数百も日常的に遣われていたことを思うと、

思っていることを、直接的に言葉にするよりも、

照れ隠しもありながら、例えて口にする方が、
氣が利いて、洒落っ気があると、考えていたのかもしれません。


水商売の世界でも、昔では、

知性と教養があり、掛け言葉や洒落の効いた返しの出来る人が、
大変人気を博していたそうですが、


今では、はっきりと、

あなたのこれが素敵ですねと、誰にも分かる言葉で、
しっかりとやりとりをされる人のほうが、人気があるようです。


それぞれの良さがあります。

排他せず、融合調和させらることが、また、日本人の素晴らしいところ。

時代を取り入れつつ、流され過ぎず、
本当の自分のスタンスを、見つけられるといいですね。




今日も、
ことだまの幸わふ国に
生かしていただき、
ありがとうございます。 愛子



さ く ら


桜というこの音の響き。
なんて美しいんでしょう。


古来より日本人が最も大切にしてきた【音の響き】。


ことに桜には、
特別の思い入れがあるのが日本人です。


薄桃色の透きとおった花びらを見つめていると、
すぅーっと、

これまでの様々な春が駆け巡り、ジンとしつつ、
今の幸せ、これからの幸せに、キュンとなる。


それに私は、もっともっと遠く…

江戸時代や…平安時代や…

そんな昔の人や景色の中に咲く桜を、
思い浮かべることも、多いんです。


城や庭園で、
外に出ることの許されなかった身分の女性たちの心を、

最も慰めたのが、
庭に咲き乱れる桜の可憐さ、儚さだったんだろうなぁ~…

と想像します。




桜が満開になり最も美しいときを迎え、今!

という時、

必ずと言っていいほど、

雨風が強く吹き荒れ、ものの見事に無惨にも花びらを散らせてしまいます。


その儚さ。

潔く散るから美しい、などと云いますが、

桜は、偶発的に散っているのではありません。


潔く散って美しいのは、
桜に、意思があるからです。



【早く皆に幸せを与えるため】に、散っているのです。



桜の【さ】は、幸のさ。
幸せを与える。サッサと動く。



山から【サ】の神が降りてきて、

坂【サ】かを下り、

桜【サ】くらに宿る。



桜の木の中には、神様が宿っている。



桜が咲き始めると、私たちの気持ちも浮き足立つ。

それもそのはず。


冬を越え、

山から神様が下界に降りてきて、私たちのすぐ身近に、
桜の木の中に存在しているのですから。


そのことを喜び、祝う儀式こそが、


【花見】


なのです。


桜の木の下、神様がおいでになっているもとで、

海の幸や、山の幸、酒、肴…


サの神に、【差し上げたあと、下げる】

これが、ささげる。

ということ。


サの神がお召しになった、

酒や幸、肴を、


皆で食べるから、神様を体の中に取り込むから、力になる。


しかも、花見のときは、
シートなどで結界をつくり、

仲間たちしか入れない空間を作っています。


仲間でその神事を執り行い、

その後その結界を出て、

神様の手足となって、それぞれにがんばってゆく、

という、意味合いがあるのです。



桜とともにやってきた、

幸を与えるサの神が、

サッサと散ることで、花見の楽しさだけに気を取られることないように、

人々を営みの中に返し、

人々の働きによって、

また、食べ物を実らせることができる。



サの神の恵みに感謝し、秋には秋祭りという神事を行い、
神様をお見送りする。


日本の人々の生活や習慣の中には、

神様の存在を意識しないことなど、無いのですね。



そんなことは知らずとも、

誰かが残そうと伝承しなくとも、


大切な神事は、自然な形で、今にも息づいています。



今年のお花見は、

桜という神様の存在と、自身と、仲間たちと、

役割と、食べ物の有り難さと、


そんな愛おしい意味を感じつつ、
楽しんでみてくださいね。



今日も、
ことだまの幸わふ国に
生かしていただき、
ありがとうございます。 愛子




















こんばんは!

愛知県・三重県と旅してきて、
昨日から地元に帰ってきて会社で仕事をしていますが、

まぁこれが…
やることが盛り沢山にありまして…

大変に慌ただしくしております…


やることが沢山あるのは大歓迎なのですが、
もう9日に迫っている、

山崎拓巳さんの『やる気のスイッチセミナー』の、
チケット処理関係などなどが、あともう少しというところにきて、

手が付けられないでいることが、気にかかっています。


お客様との連絡となると、時間帯を考えるので、
気がついたら、もう連絡できる時間を超えていて、
また明日…あぁ!できない!…が続いています(笑)


だけど、

忙しく過ごしている、ということは実は…
『必要とされている』ということだから、いいんです。


けれど私はあまり、
『忙しい』という単語を使うことが、好きではありません。


心をなくすと書いて、忙しいだから、
という理由も、無いわけではありませんが、単純に、


自分で自分を評価する忙しいの言葉は、

耳にしてあまり心地のよい言葉でないし、

そもそも基準がよくわからないのです。


自分で自分のことを、
いま忙しいなぁ~と考えている分にはよいのですが、

第三者に対して、
私は忙しいから、と伝えるとき、

では、その相手の方よりも、忙しいという意味だろうか?
となってしまうからです。


その相手の方よりも自分が忙しいかどうかなんて、分からないから。


そういうことを理解して言葉を遣う人は、
自分で自分のことを、第三者に対して説明するとき、

忙しいという言葉を遣わないのです。


もっと具体的に、
この時間はこれがあって、この時間も埋まっていて、

空いているところが無い、という言い方をします。

それは事実であり、主観ではないので、第三者のひとに言っても通じます。


『私は忙しい』は、自己感情のようなもの。

『この日ここに行かない?』
と具体的に話している相手の方に対して、

『忙しい』という自己感情で返すのは、
『それは面白そうね』と返すのと同じくらい、

回答にはなっていないわけです。



『忙しい』と『ありがとう』の共通点。


それは、【人から言われて、意義が働く言葉】


とても忙しそうですね、と、
人から言われることは、構わないし、

ありがとう、と、
人から言われることは、素晴らしい。


この場合はどちらも、

【あなたが必要とされている人】である、証拠なんですよね。



嗚呼それでもっ
連絡を取ることが出来ていないあれやこれやは氣にかかる、夜です…

明日こそっ!(笑)



今日も、
ことだまの幸わふ国に
生かしていただき、
ありがとうございます。 愛子










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